文 林 通 信

La première qualité du style, c'est la clarté. Aristote

「豪奢である」とは、何か

f:id:pommeligne:20191025171319j:plain

 
「豪奢である」とは、何でしょうか。好きなものを思う存分もつことができ、贅沢できるということ。そのめぐまれた特異な環境、地位、身分ー。
 
物質的な過剰さにたいして、多くのひとは蔑みとあこがれという相反する感情を本能的に抱くのではないでしょうか。たとえばマリーアントワネットにたいして、時代を超えて世界中の人びとが感じとってきたもののように。
 
桐野夏生は「富のみだらさ」という表現をある小説のなかで用いています。富裕であるものには、つねに淫らなものがまとわりつくのです。余分で過剰なものを愛で、必要ないところにまで美学やら極端な嗜好やらを張りめぐらせて愛撫するような生き方。この富のエロティシズムこそが、人を魅了してやまない根源となっているのでしょう。
 
個人的には、「物質的な豪奢さ」よりも「経験的な豪奢さ」の方がはるかに多くの魅力を感じます。この上なく広い家で高級品に囲まれた生活をおくる人よりも、100ヶ国を廻り、それぞれの国に友人のいる人の方が圧倒的にすてきだと思うことでしょう。
 
物質的な豊かさは、お金さえあれば、だれもが手に入れることができます。統一されてない量や質の過剰さを嗅ぎとったとき、ひとはそこにグロテスクなものさえ見出します。一方、経験的な豊かさは、その人の考えや生き方が反映されるので、一筋縄に手に入れることができない場合も多々あります。やり方も千差万別です。だからこそ醍醐味があって実におもしろいのです。
(お金がまったくなくて、毎月途方もなく編みものをしつづける女性のものがたりがあったら、ぜひ読んでみたい気にさせられます。その女性は一体どんな創造物を生み出したでしょうか。その過程にはいかなる未知と魅惑がことごとく含まれていたことでしょうか。)
 
それにしてもわたしはマリーアントワネットに奇妙な魅力を感じつづけています。たがが外れた豪快さは、いつかひびが入り、そこから見事なほどに、止めどない洪水のような水が迸りでるのです。その崩壊のときでさえの豪快さと言ったら!贅沢の生み出す無秩序なパワーには凄まじいものがあります。エロスを超えて、死の欲動さえ感じさせます。
 
そう、度を超えた物質的快楽とは、言ってみれば「死」そのものなのではないでしょうか。ちょうど室内を目いっぱいの花々で埋め尽くし、その歪な香りの狂騒のなかで生を断つことを望んだアルビーヌ(エミールゾラの『ムーレ神父のあやまち』に登場する悲劇の少女)のように。そうした意味において、ロココはもちろん、最後の王政に辿り着くまでの、終わりの見えた束の間の享楽を愉しみきるという、死の祭り、頽廃そのものであったことがつよく意識させられます。