文 林 通 信

La première qualité du style, c'est la clarté. Aristote

ずた袋 と つれづれ詩

独身でも既婚でも子どもがいても、仕事があってもなくても、どんなにすぐれた羨ましい境遇でも、すぐれていない境遇であっても、すべての人が例外なく、それぞれに、言葉にならないほど重たいずた袋を、孤独に引きずって歩いている。それはほとんどの場合、他人に示されることは生涯かけて決してない。国を変えても時代を超えても同じように言える。重たくて情けなく、ひとに見せられないようなずた袋をぶら下げていない人は存在しない。

 

 

 

 

うつくしいものを否定する人が、いま必要だ。そうでなれけば私たちは本当にたいせつなものをいつかすべて失ってしまう。すでに、慎み深く語らないものの多くが静かに息絶えていった。私たちが莫大な時間をかけて創りあげてきたものものが。

 

 

 

 

時間という概念の持つなにかに
世界中の人が追われ、また同時に魅了されている
簡単に流れ失われる時間の流れに対抗するように、何人にも犯されず自身にしか流れ得ない澄んだ時間と奥行きを持つことがいかに困難なものであることか、

 

 

ある朝のしずけさ

ねぎと生姜の炒めたものに、豆乳をそそぎ、あたため、

 

わたしはちいさなキウイを、刃(は)がギザギザになっている小型ナイフで

 

半分に切り、青い柄(え)のついた大きなスプーンで

 

すくってたべる

 

まん中下の軸にひっかかる  スプーンですくえない果実の中央

 

わたし自身のいるところ

 

まるパンを、ちぎって口に運ぶ

 

そのまえに、豆乳のスープにひたして、やわくする

 

ヨーロッパの冬はさびしい

 

こごえる木々 ふるえる枝葉

 

あなたはいつでも、そこにいたのに

 

屋根の上はしんみりとしずんでいる

 

朝のしずけさの中に

 

かろうじて、浅い呼吸をしながら

 

 

「豪奢である」とは、何か

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「豪奢である」とは、何でしょうか。好きなものを思う存分もつことができ、贅沢できるということ。そのめぐまれた特異な環境、地位、身分ー。
 
物質的な過剰さにたいして、多くのひとは蔑みとあこがれという相反する感情を本能的に抱くのではないでしょうか。たとえばマリーアントワネットにたいして、時代を超えて世界中の人びとが感じとってきたもののように。
 
桐野夏生は「富のみだらさ」という表現をある小説のなかで用いています。富裕であるものには、つねに淫らなものがまとわりつくのです。余分で過剰なものを愛で、必要ないところにまで美学やら極端な嗜好やらを張りめぐらせて愛撫するような生き方。この富のエロティシズムこそが、人を魅了してやまない根源となっているのでしょう。
 
個人的には、「物質的な豪奢さ」よりも「経験的な豪奢さ」の方がはるかに多くの魅力を感じます。この上なく広い家で高級品に囲まれた生活をおくる人よりも、100ヶ国を廻り、それぞれの国に友人のいる人の方が圧倒的にすてきだと思うことでしょう。
 
物質的な豊かさは、お金さえあれば、だれもが手に入れることができます。統一されてない量や質の過剰さを嗅ぎとったとき、ひとはそこにグロテスクなものさえ見出します。一方、経験的な豊かさは、その人の考えや生き方が反映されるので、一筋縄に手に入れることができない場合も多々あります。やり方も千差万別です。だからこそ醍醐味があって実におもしろいのです。
(お金がまったくなくて、毎月途方もなく編みものをしつづける女性のものがたりがあったら、ぜひ読んでみたい気にさせられます。その女性は一体どんな創造物を生み出したでしょうか。その過程にはいかなる未知と魅惑がことごとく含まれていたことでしょうか。)
 
それにしてもわたしはマリーアントワネットに奇妙な魅力を感じつづけています。たがが外れた豪快さは、いつかひびが入り、そこから見事なほどに、止めどない洪水のような水が迸りでるのです。その崩壊のときでさえの豪快さと言ったら!贅沢の生み出す無秩序なパワーには凄まじいものがあります。エロスを超えて、死の欲動さえ感じさせます。
 
そう、度を超えた物質的快楽とは、言ってみれば「死」そのものなのではないでしょうか。ちょうど室内を目いっぱいの花々で埋め尽くし、その歪な香りの狂騒のなかで生を断つことを望んだアルビーヌ(エミールゾラの『ムーレ神父のあやまち』に登場する悲劇の少女)のように。そうした意味において、ロココはもちろん、最後の王政に辿り着くまでの、終わりの見えた束の間の享楽を愉しみきるという、死の祭り、頽廃そのものであったことがつよく意識させられます。
 
 
 
 
 

 

Musée Jacquemart-André その2

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螺旋階段、植物、石像でできた奇妙な楽園
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ひかりのもとへ、あらんことを
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階段の上から、下から、気づかぬうちに誰かが見ている
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絵画とともに、受難へのみちびき

 石像や絵画、そして階段までもが、言葉を発せずに、なにかを語りかけてくる。エッケ・ホモ、この人を見よ、なのか、あるいはメメント・モリ、死を想え、なのか分からないが、なにかしらの神秘的な圧力というか、威力を感じる。

そして猟奇的にも思えるような、螺旋とうねりばかりの廊下に室内。曲がりくねっただれかの精神構造のなかに迷い込んでしまったみたいだ。上へ昇り下を覗き、下に降だり上を垣間見る。視線も思考も上下左右と並々ならずに反転され、わたしはもはや建築物のなかのひとつの動く色のつけられた像になってしまったみたいだ。

 

生きるものと生きていないもの、またかつて生きていたものとの間で、わたしたちは戸惑い、巡り巡るようにして流れに従うしかない。こんな室内を好んだ家の持ち主の精神は、おそらく手のつけられないほどおかしなものであろう。良くも悪くも。

Musée Jacquemart-André その1

もとはジャックマールアンドレとかいう資産家かなにかの個人邸宅で、かれはイタリア宗教画のコレクターだったとか。

詳しくは知らないが、その実にみごとな建築様式および室内様式にはぐうの音もでなかった。

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玄関先のお庭からしエステティック
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お茶できますが、ガトーのクオリティまで申し分なし
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いと高きところに、ホザンナ

つづく

シャオチンの場合

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「祖国に戻ったって、残された道はひとつだけ。与えられた仕事をして稼いで、好きなものを買うだけ。それならこっちで、思う存分に挑戦した方がずっといい!!」
 
これは中国からパリにやってきた、シャオチンのことばだ。私たちはパリカトリック大学で同じ講義を取って知り合った。
 
こちらで出会うアジアの女性たちからは、彼女のことばと似たようなことを聞くことがある。みな、心の底ではチャンスに賭けて自分のやりたいことに精一杯打ち込みたい、という強いパッションがあるようだ。それが自分の国では残念ながら叶いにくい、という不満も同時に感じられる。
 
中国、ロシア、韓国、日本... パリにはアジア圏からやってきたさまざまな女性たちがいる。私たちは、人種的に外見が似ているという単なる見かけの理由ではなく、それ以上に、同じような窮屈感や閉塞感のある国から出てきた者通し、みたいな奇妙な連帯感や繋がりによって互いを意識しているように感じる。
これはあくまでも、個人的な印象にすぎないけれども。
 
なぜここにいるのか、自国でなにをしていたのか、少し話せば、鬱憤ばらしのようにわああっと溜まっていたものが出てくる、みたいな場合を見ることがある。それは個人的な悩みというより、むしろもっと大きな、おそらくひとりでは太刀打ちできないような組織や国の政策に対しての不満だったりする。
 
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たとえば先ほどのシャオチンは、大学卒業後に六年間政府系組織で働いたそうだが、彼女のことばをそのまま借りれば「共産国ならでは」の政府へのごますりがすさまじく、そこで勤務しつづけることに限界を感じたらしい。残業時間も長く、仕事内容の割には薄給だった。
 
彼女はそのときすでに結婚しており、子どももいた。しかし家族とは別の、自分自身の人生をこれから歩むことをつよく決意していた。夫と息子を北京に残してひとりロンドンへ向かい、二年過ごしたのちMBAを取得、そして大規模サーカスをオーガナイズする会社を企業した(子育ては現地で夫にすべて委ねた)。
 
企業してさらに向かったのが、パリだった。彼女は北京に家族と住んで今後の人生を過ごすつもりはない。年に5回ちょこまか帰るからそれで良いのだそうだ。パリでPCワークしながら大学で講義を受け、フランス語を磨き、友だちと食事をしてリフレッシュする。「いまが本当に充実しているの。一人暮らし?寂しくなる暇もないくらい、忙しいのよ!毎日1hのジョギングもあるし。中国に帰るつもりは、しばらくないわ!」
 
パリからベルギー、ポルトガルイタリアといった外国に度々出張し、サーカスに出演するアーティストと直に交渉し、実際に技を見せてもらって契約を取るらしい。だから目まぐるしく忙しいのだそうだ。そう話す彼女の目は、つねに近未来を描きながら、はつらつとした今の輝きと将来への溢れる希望で大きく見開かれている。
 
わたしは彼女から、自国で働いていたときどんなに辛かったか、どんなに自分を抑えてきたかを沢山聞いた。そしてわたしは、中国と日本で生きる女性たちは似たような境遇にあるのではないかと思った。気がついたら、わかるわかる、とうなずきが収まらなくなっていた。
 
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アジアの国々には、個人に対する見えないプレッシャーや社会との軋轢、そして大きな抑圧が存在していると思う。女性に対しては、とりわけ人生におけるチャンスがぐっと少ないように感じる。こうしたプレッシャーは、それぞれの精神的な問題や生活環境によってさまざまな形を取るから、一見わかりづらい。でも日本にはたしかに、ヨーロッパにはない不定形の階級が存在していると思う。ヨーロッパのように、過去に伝統的に存在していた確固たる階級の名残りではなく、むしろ最近になって生まれたばかりの、もっと限定的で極端なヒエラルキーと格差が、わたしたちを見えないところで縛りつけ、拘束し、その未来を描きづらくさせているように思う。
 
自分がなにをしたいのか、なんのためにここにいて、なんのために生きているのか、そうした根源的な思考をストップさせてしまうような自己責任論。他者とおなじ生き方がもっとも安全で正しい、と思わせる社会構造。いつまでも無力な女の子扱いをして、ひとりの人格として、大人として見做してくれない、いまだ封建的な社会の雰囲気。こうした閉塞的な環境のなかに、才能や意欲のある若者が育つとは到底思えない。
 
もちろん中国と日本では、社会情勢がまったく異なる。シャオチンいわく、中国は宗教上の弾圧がひどく、職業選択の自由もかなり限られる。そのため企業する人がかなりの数いるが、会社を長く続けるには政府との密接なコネクションが必要になるため、忍耐と媚び売りの日々を耐え抜くしかないそうだ。(だから彼女は企業したのち、仕事の舞台を中国ではなく、パリにすることにした。)
 
しかし、自分のやりたいことがあったとき、周りの人びとや周りの環境、組織はどの程度自分のことを後押ししてくれるだろうか、周りの生き方に、ライフスタイルに、秩序に沿って、合わせて、生きなければならないというプレッシャーはないか、と考えたとき、日本と中国は似通った抑圧のなかで生きることを同じように強いられているのではないか、と感じた。
 
これから日本で人生を過ごしていくなら、考えなければならないことが多くあるだろう。それは、この国でどのように生きていくのか、ということ。どのような態度で、どのような意志をもって、どのような社会との、他者との関係性のなかで自分を保っていくのか。安泰な暮らしという見せかけーなぜなら国全体が安泰なわけでは決してないからーのなかもし私たちがいて、そこから這い出ようとしない、這い出ようとできないのならば、それはおそろしいことではないか。茨木のり子ではないけれど、倚りかかるべきものは政府でもなく、宗教でもなく、思想でもなく、自分自身の椅子の背もたれだけなのだから。
 
 

 

プルタルコスの森

Les buveurs, après avoir étanché leur soif, s’amusent à regarder les ciselures qui ornent le bas des coupes et les retournent à dessein. De même, lorsque notre apprenti sera repu d’idées philosophiques, il pourra reprendre haleine : on lui permettra alors de s’attacher à l’élégance et aux qualités intrinsèques de la langue.

p.43-44  Comment écouter, Plutarque, Rivages poche

 

「酒呑みはのどの渇きをいやしたあと、グラスの底を飾る彫金細工を眺めたり、わざとそれをひっくり返したりして愉しむ。おなじように、われらの弟子は哲学的な思想をたっぷりと堪能すると、それからひと息つく時間をもうけることだろう。こうして彼は、言語のもつエレガンスや、言語の本質的な良質さにこだわるようになっていくのであろう。」

プルタルコス『いかにして聴くか』

 

なんとうつくしい文章、おもしろみのある奥深い比喩でしょう。プルタルコスの洗練された比喩が大好きで、気がついたらページを次へ次へとめくっています。辞書を片手に、すこしずつ読んでいく次第ですが、なににも増して、たのしい作業です。

かれはたとえば、傾けられたグラスからこぼれ落ちる水を例に、いかにして他者のディスクールをみずからに上手く取り入れるかについて語ります。哲学者は決して堅苦しい古びた石像などではなく、いまの私たちの中に生きる、小さく賢明な炎の源泉のようなものなのです。